-------------------------------------------------------------------------------  人の栄華は過去に極まり、現在はただ夢の如し。  空から見た彼の視点もそれを悠然と語っていた。  廃ビルの屋上に立つ彼の眼下には過去に人が栄えた跡はなく、そこにはただ小さく見える瓦礫の山が広がるだけであった。無論、人の姿は愚か動物の姿までも存在しない。その世界は月明かりで照らしきるにはあまりにも暗く、そして冷たい。しかし瓦礫を見下ろす彼の瞳はどこか暖かみを帯びていた。  ふ、と吐息を立て、前へと跳躍。  通常の人間なら助からない高さだ。  彼の身体は重力に誘われるかのごとく地面へと落下を始める。  が、彼の羽織っている漆黒のロングコートも赤みを帯びた短髪も風に煽られることなく主へと追従する。  彼は落下ですらも当たり前といった表情でコートと同じ色のジーンズのポケットに燻銀のチェーンを巻きつけた腕を突っ込む形でなおも落下を続ける。その速度は最早とどまることを知らないかのように加速。  地面まで残り数瞬。身体が散るかもしれないというのに、彼はそのままの相貌で己の行く先を見つめている。  それは一瞬の出来事だった。  身体に制動がかかった。反動などなく自然に。自然に。ゆっくりと着地する。  彼は着地を確認した後、前を向いた。上から見下ろしていたはずの瓦礫が視界を遮る。  跳んだ。  その動きだけで瓦礫の山の頂上へと身体を導く。崩れかけたビルに囲まれながら、空を見た。  朧月夜が、淡い光を放ち輝いている。この世界には無関心に。  そうだろうな、と上向きの溜息が響いた。そして、 「自分にも本当なら関係ないはずなんだけどな」  この夜、初めて声になった声を放った。俯き、その場に座り込む。 「あー…」  何かを言いたそうで、しかしどう表現すればいいか判らないといった表情で天を仰いだ。と、その先には、 「なんだか暇そうね、いつも通りに」  月光を背負う人影。女性らしい声は彼が着地したときと同様に、彼の隣へと移った。とすん、と彼の隣に収まる。 「暇そうだよ、いつも通りに。"Alies15".」  彼は皮肉交じりに彼女の名を呼んだ。その言葉に彼女は不機嫌そうな表情を露にする。 「……だから、名前を呼ぶときは"15."をつけないで頂戴。何度言ったら判るの?"遠夜"」  気にするな、という彼の言葉に気になるわよ、とAlies。相変わらずの彼女の表情を横目に鼻で嗤う遠夜。 「……で、どうしたんだ?随分と久しぶりだな」  ようやく彼は彼女のほうを向いた。対する彼女の視線は己の足元だ。 「別に。用なんてないわ。ただ私の管轄が暫くこの周辺らしくて、たまたま巡回していたら貴方を見かけたってだけ」 「ん?お前確かこの間はアフリカ圏の担当だったんじゃ……」 「あそこは数が多いから上層部が管理するって。私は比較的数の少ない地域の中から日本を選択してきたの」  そうか、と遠夜。あまり興味のなさそうな返事だ。 「……貴方はどうなの?遠夜。まさかまだ──」 「そのまさか」  遠夜は立ち上がり、身体をほぐすように伸びをした。その姿を上目に見るAliesは深く吐息を放つ。 「……いい加減仕事をしたらどう?私たち"誘導者(inducer)"は迷える魂を導くのが仕事。それは」 「『崩壊神話』以降我らの成すべき仕事の重さは計り知れないものになった、だろ?ことあるごとに言われてるから耳タコだ」 「それなら何故貴方は──」  と、Aliesがそこまで言って変化に気づいた。  遠夜がこちらを見ているのだ。何かを言うより早く、遠夜が口を開いた。 「お前さ」 「な、何?」 「何で"誘導者"なんてやってるんだ?」 「それは……」  少しの間。言葉を選ぶように、 「……私でも良く判らないけど、でもなんとなくやらなきゃならない気がするから」  その言葉に、はー、と遠夜は大袈裟に漏らす。 「俺にはそれが判らないんだよなー…やらなきゃならない気がする?いつぞやの資本主義思想じゃないんだから。実際、誘導者の仕事も全て請負制だ。自分から請け負わない限り特にする必要もない。俺みたいに派閥に入ってない奴は尚更な」 「その派閥に入ってない貴方が影でどう言われているのか判ってるの?!」  Aliesは激昂して立ち上がった。遠夜の方が頭一つ分ほど高いが、彼女の向ける視線はそれすらも貫く。 「"愚か者"よ、"愚か者"!私が所属しているトコでさえそうなんだから、他のところだともっと酷いに決まってる!見せ掛けでもいいから少しだけでも──」 「だから、さ」  え?とAliesが問うよりも早く、遠夜は視線を離さず、 「他人がどう言おうと関係ない。確かに誘導者としてはそれなりに力はあるらしいが、それを使おうとは思わない」  つい、と視線を外して、 「俺がガキなだけ。ぜーんぶ、それだけ」  Aliesは黙った。自分たちの世界では許されることのない"言い訳"。しかしそれが彼の意思を蝕む以上、それは確固たる"理由"になる。この世界では縛られることがないから尚更だ。ただ、 「……それでもやっぱり、昔から根付いた考えからは逸れていると思うわ。貴方には悪いけど」  ばつが悪そうに遠夜を見上げる。  ……?  Aliesは一瞬判らなかった。  遠夜は、笑っていた。 「優しいな、お前」  喉を鳴らし笑う遠夜にAliesはなおも疑問な表情を浮かべる。 「自分の意見を偽らない。気遣う。優しいって思うのはそれだけだ」  彼の顔が徐々に視線から外れていく。はっ、とAliesが気づいたときには、彼の顔はもはや手で触れることのできない位置にあった。  彼はまたどこかに行ってしまうのか。  Aliesは何を言えばいいのか判らず、 「……人間の感情はあまりよく判らないわ」  何を言っているのだろう。この発言は場にそぐわない気がした。が、意に介さないといった様子がそこにはあった。 「追々気づくといいさ。それが人間臭い俺と、人間になり切れないお前が仲の良い理由だよ。Alies15.」  また会おう、とそれだけ残し、彼は上昇を始める。あ、とAliesが声を漏らすが、遅い。 今からでは最早追いつけない高さまでに彼の姿は小さくなり、  そして、消えた。 --------------------------------------------------------------------------------  もうこの世界は生き返らないだろうな、と遠夜は思っていた。人も、動物も、光でさえも失われた大地。残るものといえば人の栄華の儚きを映した人工物の欠片のみ。それはこの世界を説明するのに充分過ぎる言葉だ。『崩壊神話』が過ぎ去って50年、幾度となく各地を見て回った遠夜だが、その光景は年月が変われど場所の姿は変わらぬままであり、そしてその姿からは、復興の二文字は絶望的なほど遠かった。 「各地方に伝承されている神話に準えた人類の破滅、か。……人が創った話が人の破滅を 示唆していたっていうのは皮肉だな」  闇色を纏った空を漂いながら遠夜は独りごちる。えーと、と月に向かって呟き、 「──日本は確か『モイラの紡ぎ手』だったか。増えすぎた人口の統制だった筈の"クロ ト"に必要以上の人間を奪い去った"ラケシス"、それに完全に破壊した"アトロポス"。……公正なる裁きの女神の娘たちにしては随分と手酷くやったものだ」  そして、その"裁き"の結果が、これだ。水に浸かってしまった土地は最早植物が育つ余 地を残さず、生物は3人の女神により完全に掃滅、残るは眼下に広がるその場に残された 無機質な建物たちだけ。  生きる気力すら失くしたこの地域は他の地域と同様、完全に沈黙した。 「そして後は片づけを、ってことか」  それが、自分たちのなすべき仕事らしい。この土地に縛られた者たちを在るべき場所へと帰すための存在。 「それが自分達"誘導者"……か」  漂うだけだった自分の身体を、自分の意思でゆっくりと加速させる。 「判らないよなー……」  自分が何故この仕事を請け負う人間なのか。  ──自分じゃ誘導してやれなかったじゃねえかよ。  無意識に加速に力が生まれた。視界の流れが、意識が追いつく前に速くなる。 「なんで、俺が……」  力無く呟く。その間にも視界にあったものは数瞬にして過去のものとなる。  そうしたかった。  あの時。自分が誘導者であることを辞めようとした出来事を。   「──!!」  加速が爆発に変わった瞬間だった。遠夜の目は大きく開き、曖昧だった世界をはっきりと感じ取る。前へ、前へ。  ……俺に力はある。  だが、それを否定された。一度だけでなく、何度も何度も。  瓦礫の塔はいつしか視界から消え去り、目の前には深淵にも似た森が広がっている。  構わず、入っていった。速度は落とさない。  遠夜は風が揺らす木の葉の音を耳に感じながら、思う。 「俺が純粋に"誘導者"に戻れるとしたら……」  頭を振った。あるわけがないと。そして、  ……判らないんだよ。  森を抜けることで彼は新たな視界を得ることになる。永遠に続くと思われる深淵はすぐに先が見え、淡く光を帯びる闇の中に遠夜は勢い良く身を躍らせた。 「……?!」  森を抜けた先の視界は開けていた。勢いで飛び出した遠夜の眼下に広がるのは。 「集落……か?」  そこは確かに他と同じ瓦礫の山ではあったが、その整然さと区画整備のされ方は明らかに人の手が入ったものであった。  ……もう少し全景を見てみたい。  何の気なしにそう思った遠夜は更に上昇する。と、徐々にそこが一つの町であったことは推測から確信に変わっていく。整然さは小さくなる視界から失われることはなく、 「かなり大きな町だったのか……?」  そして全景が明らかになった。森に囲まれたこの広大な土地がどうやら一つの町であったらしい。整然さは土地の端々まで失われていなかった。  ふと、遠夜は中央の広場を見た。そこは他の区画とは異なり、瓦礫を取り囲むようにして広場が存在しているのだ。遠夜の足は自然とそちらの方へと向かう。  ふわっ、と瓦礫の上に着地。  上空から見た広場の囲いはこの瓦礫をも取り囲み、まるで囲いと広場は足元にある建物を守護するかのようだった。  ……それがこの様だけどな。  口には出さず、しかし心の中でそう思う。 「──ここもそうなのか?」  他と同じ、生きる意志を失くした場所なのだろうか。  ──リン。 「──?!」  何かが聴こえた。何故?ここで聴こえるものは自然に発する音のみ。さっきのような  凛。  遠夜は弾かれるように音の鳴る方へ。今立っている高さと同じほど、その逆方向だ。音の残滓を逃がさぬよう、急いで追いかける。  凛。また鳴った。今度は逃がさない。瓦礫の隙間に手を伸ばすと、瓦礫でない何かが手に触れた。一気に掴み、引き戻す。確かな感触。  ふう、と遠夜は溜息をし、掴んだ物を見た。それは、 「鈴──?」  赤褐色の明らかに錆付いた、しかしふると確かに凛とした音がなる。鈴には紐が付いていて、輪状に繋げてある。  ふむ、と二、三度手の先で玩び、そしてジーンズのポケットに仕舞いこんだ。  身体の空気を全て吐き出し、遠夜は寝そべった。空には変わらぬ月明かり。 「……皆もこうだといいんだがな」  軽く目を瞑る。そして遠夜は周囲の音を聴きながら、同僚がやることのない──意識を闇へと同調させる。 -------------------------------------------------------------------------------  境界の見えない闇。  取り残された自分。  数え切れぬほどの冷たい視線。  逃げることの出来ない、閉鎖領域。  取り囲む批難の霊達。  忘れることのない初仕事。忘れようとしても、奥底では覚えている。  自分では最善を尽くしたつもりだった。  なのに、歓迎されるどころか疎んじられるなんて。  沈黙が怖い。  視線が怖い。  空気が怖い。  此処に立っていることが怖い。  逃げ出したい。逃げられない。  足が竦む。身体が震える。本来無い筈の感情が全身を蝕む。  止めてくれ。  冗談じゃない。  頭で冷静を取り繕おうとしても理性は本能に従う。  恐怖。  それは誘導者としての自信も、力も、何もかもを否定へと導く。  沈黙。  それを破るのは眼前の若い女。  邪魔をしないで。  水を打ったような空間で、冷たく響く一言。  それだけだった。    そうだ。邪魔をするな。  何故俺たちを無理やり連れて行こうとする?  私たちはここでずっと過ごしていたいの。  貴様に何の権利があるっていうんだ。  水面に落ちた水滴は波紋をつくり、広がっていく。  ふざけるな。私たちはやりたいようにやる。  俺らはこの場所で『生きて』いきたいんだ。  アンタが何者であろうが、俺たちは付いていくつもりはない。  そうだ。僕達は僕たちの過ごし方を見つける。だから邪魔をするな。  この邪魔者め。二度と来るな。  頼むから私たちの邪魔をしないでくれ。  お前に俺らを縛る権利はない。  何が誘導者だ。地獄へ連れて行く気か。    周りからは罵声しか聞こえない。全て自分に向けて放たれている。  何故?何故自分だけこうなってしまったのだろう。  同僚はこんなことにならなかったのだろうか。  耳を塞ぐ。目を瞑る。こんなことをしても無駄なのに。  罵声は耳からではなく、直接魂に響く。耳をふさいでも無駄なのに。  視線は目からではなく、直接身体を貫く。目を閉じても無駄なのに。  ふと、罵声が止んだ。  ?、と戒めを解き、恐る恐る目を開く。  ──!!  視界の先に居たのはうさぎのぬいぐるみと手を繋いだ小さな女の子だった。  彼女の瞳には色がなく、ただ俯いている。  止めろ。止めてくれ。キミは。  そんなつもりであの言葉を言ったわけじゃないんだ。違うのに。  少女は俯かせた顔をゆっくりと、ゆっくりとこちらに向ける。  止めてくれ。その濁った瞳で見るな。僕は、僕は、僕は。  完全に目が合った。もう二度と結ばれない少女の焦点。  しかしその目は迷うことなく捉えている。自分をこうした相手を。  人形を持っていない左手が、ゆっくりと水平に持ち上げられる。  その手は僕を指差し、少女は言い放った。  死神。  違う!死神なんかじゃない!目を瞑り、耳を塞ぎ、大きく頭を振る。  しかし周りはそれを肯定するかのように、紡ぐ。死の言葉を。    死神。  死神。  死神。  身体に、魂に、冷たい声が聞こえる。止めろ、止めてくれ。  その声は止まることを知らず、やがて大きくなる不協和音。  違う。死神なんかじゃない。僕は、 『この死神が!二度とこの場所に入ってくるんじゃない!!』 『僕は……』 ------------------------------------------------------------------------------- 「──死神なんかじゃないッ!!」  跳ね上がるようにして遠夜は目を覚ます。身体が熱く感じる。息が荒い。鼓動が全身を気味悪く鳴動させる。ひゅう、と喉鳴りを数度。大きく咳き込み、空を見上げた。そこに星はなく、闇衣を纏っていた空が白々しく明けはじめている。  ……こういうときに人間に近いと厭だな。  身体が重く感じる。この夢を見た時の目覚めはいつもこうだ。存在するのすら億劫になるほどの重さ。この重さは嫌いだった。 「僕は……」  はっ、となって遠夜は身体を仰け反らせ、反動で着地した。快い靴の音。その音が地に足を付けたことを証明する。 「ダメだ」  遠夜は呟く。 「……違う」  違う、ともう一度。全てを振り払うように首を大きく横に振った。  前を見る。そこには変わらぬ瓦礫の、 「──?」  ない。代わりにあったのは緑色に塗られた背高のフェンス。そしてその向こうには白んだ空。 「何故──」  思わず遠夜は足元を見た。  石造りの床の上に立っている。 「──?」  どうなっているのだろう、と遠夜は思う。  昨日眠りに落ちたのは確かに瓦礫の上、それはこのポケットに入れた鈴が証明してくれる。  遠夜はポケットの上から軽く鈴がある辺りをなぞった。球状の形が指に触れる。よし、と確認して、 「昨日、寝る前までの動きは間違いないみたいだ。ということは──」  流されたか?と思う。霊的な流れによっては少しずつずらされていくとは思うが、  ……それにしてもこんな綺麗な造りの建物は現実に存在しないはず──  それは何よりも色々と見て回った遠夜が一番良く知っている。とすれば、 「何がどうなってる……?」  改めて周囲を見回す。一面をフェンスで覆われた空間──恐らく何かの建物の屋上だろう。そして自分の右手側、歩いて十数歩のところに鉄の扉がある。  風が吹いた。揺れるはずのない彼のロングコートが、風にはためく。靡く筈のない彼の短髪が小さく風に靡く。  ……理解できない。 「どうなってるんだ、ったく」  毒づきながらも、それ以上の思考が出てくるはずもなく、自ずと遠夜の取るべき行動は決まっていた。  天を仰ぎ、今日最初の溜息を吐き出すと、ゆっくり、扉のほうへ歩き出す。目算通りに15歩で扉へとたどり着く。と、ここで考える。  ……少なくとも今は自分の存在が"干渉"しているのか?  目つきが変わった。ドアノブを見る。ゆっくりと手にかけ、  ……冷たい。  感じるはずのない感覚に戸惑いながら、ゆっくりと押す。ドアは重い音を立て、多少の粉を舞わせながら完全に開かれた。先は下へと続く階段。 「行くしかねぇな」  遠夜は浮遊を開始、 「ん?」  できない。いつもなら軽く宙に浮くはずなのに。 「ったく、ホントにどうなってんだこれは」  早速二度目の毒を吐きながらも遠夜は階段をゆっくりとした調子で下りてゆく。一歩一歩、鳴る筈のない足音を耳に感じながら。  階段を下りると踊り場に出る。まだ下へと続く階段が伸びていたが遠夜はちらと一瞥しただけで目の前に広がる廊下への道へと歩を進めた。廊下は左右に伸びていて、右へと続くほうが若干短い。よって遠夜は右の方へと歩き出す。右手には各部屋を表す看板が掲げられていて、それぞれの持つ役割が一目で取れた。最後の部屋まで数十歩。その距離をゆっくりと周囲を確かめながら歩く。  最後の教室の前に立った。 『資料室』  と書かれたそこを窓越しから覗くと、何かに使う道具が所狭しと並んでいる。男性を模った彫像や、ホワイトボード。天球儀や巨大なスクリーンまで置いてある。 「また色々置いてあるな……」  ペンキで塗られたダンボールや大掛かりな装置まであったが、特別に何か目に付くものがあるわけでもなかった。 「まぁ、ただの倉庫みたいなもんかな」  次は向こうに行ってみるか、と踵を返した瞬間だった。 「そこで何をしているの?」  低めの、凛とした声が響いた。目の前には長く黒い髪をした長身のブレザー姿の女子。  彼女は腕を組んだ状態で、言った。 「貴方、見ない顔ね。名前は?ここの生徒ではないでしょう?」 「生徒──」  言った後で遠夜は迷った。  ──どう振舞えばいい?  そもそもこの場所がどういうところなのかも判らない状態だ。しかしそれを話してしまうと目の前の彼女の不信感を煽ってしまう。  ──既に不審者ではあるけどな。  自分が誘導者などという話も恐らく信じはしないだろう。  ──参ったな。  そう思った直後だった。 「貴方、ちょっとこっちに来なさい」  目の前の彼女はそう言って懐からキーリングを取り出すとそのうちの一つを資料室の鍵穴に差し込み、扉を開ける。 「もうすぐ生徒達の登校時間だからここで立ち話は邪魔になるわ」  そう短く告げると目の前の女生徒は中へと入っていった。遠夜もその場でどうすることもできずに、とにかく中へと入る。中は外から見た感じよりも広々としていて、道具が並べられているのは入り口側の半分だけに過ぎなかった。 「奥の方に机と椅子があるから座ってて」  その言葉どおり奥には長机が一つと椅子が数脚向かい合わせに置いてあり、遠夜は下座のほうの椅子に腰を下ろした。 「待たせたわね」  扉の鍵を閉める音が聞こえ、先刻の女生徒が目の前の椅子に腰を掛けた。手にはノートと筆箱が握られており、座ると同時にそれらは机の上に置かれる。 「さて」  彼女は改めて腕を組みなおす。 「私は大槻学園風紀委員副委員長の白河秋乃と申します」  口調は丁寧だが、有無を言わさぬものだ。視線は冷たく、遠夜を見据えたまま離さない。  ぞくりとした。 「まずは貴方の名前をお尋ねします。お名前を」  ノートをぱらぱらと開き、彼女──秋乃は下敷きを敷き、筆箱から鉛筆を手に取る。 「夏海 遠夜」  服装からして受ける印象はあまり良くないだろうが、それでも遠夜はなるべく姿勢を正すようにする。一言。秋乃はノートにそれを写していく。 「どのような漢字を書きますか?」 「夏の海、遠い夜」  鉛筆が音を立てて発言を忠実にノート上へと再現する。書き写す間も秋乃は遠夜に質問を重ねる。 「お住まいはどちらです?」 「特に決まってはいないな」 「……冗談を。まさか橋の下で寝泊りをしているとでも?」 「必要があればたまにそうしているな」 「なるほど。で、本日はどのようなご用件でこちらに?」 「用件っていってもな……朝起きたらここの屋上に居ただけだし」 「そんなものなのでしょうね」  ……ん?  遠夜が質問する前に全てを書き写されたであろうノートを閉じた秋乃は顔を上げ、 「では今日は私の部下と一緒に文化祭準備の監査を行ってもらいます。何も目的がないよりはその方がよろしいでしょう?」 「──は?」  いきなりの提案に素っ頓狂な声を放つ遠夜。遠く、生徒達の声が聞こえる。 「ちょっと待て。いきなり意味が判らんぞ?監査だの何だのって……」 「確かに貴方はそういうことをよくご存じないかもしれませんね」  組んでいた手を解き、机の上に両肘を突く。 「まずは文化祭というものからの説明ですね。学園生活を楽しむ為に、年に数回催し物があるのですが、その中で特に力を入れているのは文化祭です。……文化祭というのは名ばかりで大抵は有志やクラスの模擬店が多く見られますが、中には展示物なども見受けられますけれど、とにかくクラスや有志単位でそのような出展を行い楽しむのが文化祭だと思われてよいでしょう。……ですがその準備にも色々ありまして、食品関係の管理は文化局が一括して行いますが、準備を抜け出す不逞な生徒がいるのもまた事実。そういった人間を監視するのが我々風紀委員の仕事なのです。貴方は何やらわけありのようですので、私の後輩と共に一時的に風紀委員としてそういう人間を教室などに戻す仕事を行ってほしいのです」 「しかし」 「判っています、いきなりこのようなことを頼むのはおかしいと。私とて見ず知らずの人間にはこのような質問の後は教師陣に連絡して突き出しているところです。ただ……」  と、秋乃は一度迷ったように切り、言葉を選ぶような仕草を見せたが、 「……唐突で申し訳ありませんが、私には貴方しか頼れる方がいないのです。事情は後ほど時間が空いたときにお話しますので何も聞かずにお話をお受けください」 「そんなこといっても、俺がもし断ったらどうする──」  口を突いた一言。特にそういう気が起きたわけでもなく、ただ純粋に尋ねた言葉。  ──俺は頼れるようなやつでもないしな。  そう思い、ふと遠夜は意外な光景を目の当たりにした。  秋乃が、深く、頭を下げたのだ。 「──よろしくお願いします」  唐突の彼女の動作に遠夜は窮する。 「あ、いや、そういうつもりじゃなくてさ……」  秋乃は顔をあげる。?と浮かべる彼女に、遠夜は何か言おうとしたが、 「──あー」  はあ、と遠夜は大きく溜息を吐き、 「判った、判ったよ。その代わりあとできっちり理由を説明してくれよな?」 「ええ、約束は必ず守るわ」  秋乃はそう言うと初めて遠夜に笑顔を見せた。 「ありがとう」  それを見て遠夜は思う。  ──初めの口調は警戒の印だったのか。  それが自分に対して何故解けたのかは良く判らない。  ……全てはこいつの理由の為、か。  付き合ってやろうか、と遠夜は思った。礼儀を弁えている彼女に。自分の置かれた立場などは未だに把握できていない、それはまだ仕方のないことだ。 「少しずつ判ればいいだろう」 「そうね」  遠夜の呟きに、秋乃が知ってか知らずか応える。その応えが遠夜には少し心強く感じた。  秋乃から待機を命じられた後暫くしてやってきたのは、 「おはようございます、2−Bの芦川芽衣です。よろしくお願いします」  秋乃ともう一人、カールを施したツーテールの女生徒だった。秋乃に比べて頭一つ分ほど小さく、大人とも間違われそうな秋乃に対して芽衣は下手をすれば中学生に見間違えるほど幼さを残していた。しかし口調は秋乃の後輩というだけあってか流石にしっかりとしており、風紀委員としての風格はあるようだった。 「夏海君、ある程度の話は昨日芦川にしてあるからあとはこの子に聞いて頂戴。芦川、何かあったら委員長か指導室待機の書記長に連絡するようにね。私は越智先生と今日の打ち合わせをしてくるわ」 「はい、判りました」  芽衣が頷くのを確認すると秋乃は足早に資料室から去っていった。それを見届けて、芽衣はくるりと遠夜の方に向き直り、椅子に座る。 「えーっと、それじゃ夏海先輩、今日はよろしくお願いしますね?」 「ああ。悪いな、いきなり妙な役にさせて……」  遠夜の言葉にふふ、と微笑み、 「気にしないでください、白河先輩の頼みですから。それに夏海先輩、初めてお話しますけどなんだか話しやすい感じだから良かったです。私ってお話するの好きなんですよねー。風紀委員に筒井先輩っていらっしゃるんですけど、巡回にご一緒させていただいたときに全く喋らなくてすっごく気まずかったんですから」  芽衣はくすくすと笑った。続けて、 「一応監視はきちんとしないといけないですけど、他にも色々お話しながら行きましょう。白河先輩にも質問に答えるという名目で会話の許可を頂いてますし」 「ああ、そうだな。……と、巡回の前に具体的な手順をお願いできるか?」  そうですね、と芽衣が応える。 「……といっても実際にはあまりやることはないんですけどね。私たちの仕事は各教室の風紀委員の報告を聞くこととここにあるブラックリストに挙げてある人間の存在の確認です」  傍らから黒の細い手帳を机の上に乗せ、人差し指で軽く叩きながら、 「予めこの人間には風紀委員を通して教室に残るような仕事しか割り振らないように命令してあります。なので居なかった場合は時刻と居なかった人の名前とクラスを表記して昼休みと放課後に指導室に持っていくといいと思います。……余談ですけど、もしも居なかった場合、そのクラスは明日の文化祭で何らかのペナルティを課すことになってます」 「ペナルティ?」  ええ、と頷き、 「なんか色々あるみたいですけど、今年は丹羽先生……あ、風紀委員の顧問なんですけど、その方が当日に竹刀持って出張して鍛えなおしてくれるって」 「うわ、何だよそれ」 「凄いんですよー。随分お年を召した方なんですけど剣道の有段者で、過去に親仁狩りをしていた不良数人に絡まれて逆に叩きのめした挙句散々に説教してきたらしいですから」 「そんな人が当日店のほうに来るのか……気が気じゃないだろうな」 「ええ。ですから結構クラスが団結して対象者を縛り付けてるらしいですよ?」  それをみるのも楽しみなんですけどね、と芽衣は笑う。と、ベルがスピーカーを軽く震わせながら鳴り響いた。 「あ、もうこんな時間ですか。あと5分で準備時間が始まりますね。そろそろ部屋を出ましょうか」  そう言うと芽衣は立ち上がり扉のほうへと向かう。遠夜も頷き、立ち上がり後を追う。廊下に出た遠夜がまず聞いたのは喧噪だった。声のする方、先程とは逆の方を見るとそこには制服姿の男女が廊下に出て忙しそうに道具を持ち、部屋──教室を出入りしている。 「あ、流石に3年生は行動が早いなー」  鍵を閉めた芽衣が廊下を見てそう呟く。 「去年もでしたけど3年生って文化祭の準備に取り掛かるのが早いんですよ。やっぱり最後だって思ってるから気合入れてるんでしょうね」 「そういえばさっきの……」 「ええ、白河先輩も3年生です。白河先輩は3−Aだから……今年は仮装かな?確か時間を決めて学校内を歩き回るって言ってましたよ。時間は余るだろうから今年は参加するつもりだって仰ってましたし」 「そうか……あの人はなんに変装するんだろうな」 「何でしょうねー。でも白河先輩はどんな仮装も似合う気がするんですよね……羨ましいなぁ」  むー、と芽衣は軽く頬を膨らませる。  ……元々こういうノリの子なのか。  話しやすいのは遠夜にとって割と嬉しかった。未だに拭い去られていない不安が、こうした会話で和らいでいくのを感じる。 「じゃあ、まずは2階に下りて1年生の教室から回ってみましょうか」  そう言うと芽衣は階段の方へと向かって歩き出す。遠夜もそれに従い、二人は監査を開始した。 「──ふう」  遠夜はベンチに腰掛け、溜息を吐いた。 「お疲れ様でしたー」  芽衣がジュースを差し出す。ありがとう、と遠夜は受け取り、口をつけた。柑橘系の甘酸っぱい味が喉を通り、駆け抜けていく。 「オレンジジュース、大丈夫ですか?好きな飲み物とか判らなかったから私が好きなのを買ってきたんですけど」 「ああ、大丈夫だ。美味しいよ」 「そうですか、良かったです」  芽衣は満面の笑みを浮かべる。 「この中庭、いいでしょう?好きな場所なんですよ。そこの木が木漏れ日を運んでくれるから春先やこんな秋の日は特に日差しが柔らかくて」 「ああ。こういうのはいいよな」  頷く遠夜。白いベンチが秋色の日差しを反射し、視界へと運んでくれる。 「しかし一年生の監視は面白かったですねー」  芽衣は表情を崩さずにジュースに口を運んだ。一口、二口。 「そうだな、流石に考えが柔らかいというかなんというか……」 「それでもブラックリスト入りしてる人をガムテープで拘束なんて誰も考えませんよー、掃除用具入れのロッカーに詰めてたトコもあったし」 「ああ、1−Cだっけ?出し物は普通に人間もぐら叩きだったのにな。……しかしそこまでしなくても良さそうなものなんだけどな」 「よほど丹羽先生に来て欲しくないんでしょうね。あの人一年生の歓迎合宿にも同行したみたいですし、何か強化メニューでもさせられたのかもしれませんよ?」  あはは、と芽衣。それを見て、ふと思う。 「芦川って良く笑うよな」 「え?あ、そういえばそうですね。よく言われます」 「羨ましいな」  笑い混じりに遠夜がそう言った途端、芽衣の表情が凍りついた。  影が冷たい空気を含み通り過ぎる。 「──そうでもしないと、悲しいですから」  え?と遠夜が訊き返そうとするが、芽衣ははっとした表情になり、 「あ、えと、その」  しどろもどろに受け答え、 「ええと、すいません、ちょっと指導室にリストを持っていきますね」  急に踵を返し、走り出す。 「お、おい」 「午後からは一度指導室にお願いしますね〜」  遠夜の静止も聞かず、芽衣は校舎のほうへと走り出してしまった。呆然とする遠夜。 「……どうしたんだ?彼女は」  風が頭上の木の葉を忙しげに揺らし、音を奏でる。それはどこか乾いていて、満たされていないようだった。遠夜は考える。 「……何かあるよな」  普段自分の存在する領域では考えられない自分への物理的な出来事。秋乃の理由。そして芽衣のあの言葉。  何かがおかしいと思う。瓦礫の山ではない時点で何処か違う場所に居るということは判る。だが、良く判らない。 「もしかして……」  一つ、思い浮かんだ。しかしそれは馬鹿馬鹿しい話だ。だが、  ……もしそうだとしたら俺がここに居ることが説明できる。  そして彼女達もまた『被害者』だとしたら、と。問題は物理的な出来事が何故普通の人間のように自分に降りかかるか、この理由が説明できない。少し考えてみたが、 「だめだな、こりゃ」  遠夜はジュースを一気に飲み干し、ベンチへと寝転がる。日差しは相変わらず遠夜を照らし、柔らかく包む。そしてその光は仄かに優しく、暖かい。だが裏腹に、遠夜は曇った顔をするだけだ。  目を瞑る。今は日差しを感じたかった。そうすれば心を解してくれそうだったから。  直後、 「……秋乃」  男の声がした。  秋乃?  朝のあの生徒のことだろうか。背凭れの隙間から向こう側を覗き込むとそこには秋乃ともう一人、白い学生服に身を包み髪を短く刈り込んだ長躯の男が向かい合わせで立っていた。比較的距離が近い所為なのか、それとも声が大きいのか、ともかく男の低い声は遠夜に届いていた。 「考えて、くれただろうか」  力強い相貌の男は目の前の秋乃を見ている。秋乃は頭を振って、 「言ったでしょう?透。私の答えは文化祭のフィナーレで、ここできちんと返すって」 「そうではない。ただ、考えてくれているか。それを知りたかったのだ」 「なら心配する必要はないわ。私はあれからずっと考えているんだから」  ならいい、と透と呼ばれた男は小さく。と、予鈴が辺りに響いた。 「──では、俺はそろそろ持ち場に着く」 「ええ」  短くやり取り、透は校舎へと戻っていった。 「──さて」  秋乃はそう呟くと踵を返し、そのままベンチの方へ。  ──ヤバい?!  そう思ったときには遅く、秋乃は既に背凭れ越しから遠夜を見下ろしていた。 「貴方、こんなところにいたの?」 「あ、ああ。丁度寝転がってたところで声が聞こえてな」 「そう……ということはさっきのやり取りは?」 「……ああ、全部聞こえた」 「そう」  何かされるかも知れないと覚悟していた遠夜だが、秋乃はただ溜息を吐くだけで、 「──ま、そういうことよ。私は彼に告白されているの」  と短く告げるだけだった。ふむ、と遠夜は身体を起こし、 「受けるつもりなのか?」 「ええ。あの子とは幼馴染で、彼のいいところも、悪いところも全部知っているわ」  背凭れに手を掛け、ふわりとジャンプ。遠夜の隣に身体を落とした。 「随分と身軽だな」 「これくらいないと風紀委員は務まらないわ」  苦笑し、しかしすぐに表情を元に戻し、 「でもね」  忌々しげに放った。 「彼と私は結ばれることはないの。永遠に」  本鈴が、重々しく鳴り響く。  二人は動かない。 「……どういうことだ?」  意味も判らず訊き返す。しかし秋乃は首を横に振り、 「もう時間よ。暫くしたら午後の監査に行かないといけない。全ては放課後に教えてあげる。だから、もう少し私の我侭に付き合って頂戴」  秋乃は立ち上がり、校舎の方へと歩き出す。 「──待てよ!」  遠夜も慌てて立ち上がる。  ──畜生。  何もかも判らない。芽衣が悲しそうにした理由も、秋乃が懇願までして吐き合わせる理由も、結ばれることがないという理由もだ。しかし何より、無意識に隠そうとしている態度が何よりも気に喰わない。 「……畜生」  遠夜は歯噛みし、資料室へと向かった。    遠夜が資料室で待つこと数分、そこに現れたのは秋乃だった。 「さっきは申し訳なかったわ」  開口一番、秋乃はそう言ってきた。 「彼と結ばれないのは理由があるの。監査中は話せないけど、ともかくここで口に出すと皆に迷惑がかかるような理由なの。放課後に屋上できちんと話すから、それまで我慢して」  そう言われたものの、やはり遠夜は不快感を拭えなかった。  ワカラナイコトダラケ。  取り残されていた。皆からも、この学校という場所からも。  秋乃と共に2年の監査を行っているときも疎外感は拭われなかった。  何を馬鹿な。元々部外者ではないのか。  しかしそれなら何故秋乃は自分に頼むような真似をしたのか。 「……判らねえよ、畜生」  この空間で幾度となく考えたこと。それは未だ答えとして脳裏には浮かばない。  代わりに、遠夜の脳裏にはあの時の少女の顔が浮かび出た。  はっ、と気付いたときには遅い。焼きついたあの頃の少女が人形を持ったまま俯き、何かをぼそぼそと呟く。その少女に放った言葉が脳裏に、閃光の如く焼き付く。  キミハモウシンデイルンダヨ。  ダカラ、コッチノセカイニオイデ?  唱えてはならない禁断の魔法。無知な魔法使いはその強さを知らずに解き放った。そしてそれは、彼女の心を完全に殺した。そして今、閉じられたものを無理にこじ開けようとする自分が居る。  ダメだ。  覗いてはいけないと思う気持ちが遠夜を押し留める。本来触れてはならないはずなのだ。それなのに、少し話しただけで無理に中に入り込もうとする。  だから"愚か者"と揶揄されるようになったのに。  冷静に線を引こう、と遠夜は思う。廊下で打ち合わせをしているだろう彼女達も、窓越しから見る教室の中で大道具の準備をしている彼らも、全ては自分から見たら他人という存在。なのに、  ──その一部と触れ、なんとかしてやりたいと思う自分が居る。  そんな力があるかも判らないのに、  ──それが"愚か者"と呼ばれる理由なのかもしれないな。  自嘲する。せせら笑いを浮かべ、馬鹿だ、と。  と、秋乃が目の前の教室から出てきた。ふう、と一息つき、 「3−Bはこれで終わり。さ、残りは私のクラスよ」  付いてきて、と秋乃は歩き出す。それに従い、遠夜も。  隣同士である教室は歩数にして約7歩程度、よって3−Aにたどり着くのは数秒だった。今までは扉を律儀にノックしていた秋乃がノックなどをせずに、いきなりドアを開ける。  と、それまでの秋乃の口調が完全に変わった。 「やっほー!皆、きちんと準備してる?」  完全なまでに友人と話すそれに変わった秋乃の表情も今までのものとは違う、心底嬉しそうな顔をしている。彼女に応える声が、教室の端々から届く。 「もっちろん!見ろよ、この出席率!100%だぜ!」 「ねね、見てよ白河さん!ちゃんとここに人数分の衣装が出来てるよー!」 「今ちょうど衣装合わせをしてたの。もう少ししたら全員分終わるわ」 「そう。いい感じね」  にっこりと皆に笑いかける秋乃。しかし、あ、と声をあげ、 「そういえば夜のうちに各教室に貼るビラをまだ確保してなかったわね」 「そういうと思ってきちんと確保しておいたヨ。美術部の浅利が昼頃仕上げたカラ」 「あ、ありがとう。気が利くよねー、篠崎は」 「ふん。お礼は科学部の実験機材に回してクレ」 「馬鹿ねー、それとは話は別でしょ」  笑い飛ばしながら秋乃は篠崎と呼ばれた同級生を軽く小突く。篠崎のほうもまた楽しそうに、大袈裟に仰け反りながら持ち場に戻っていく。  よく変わる子だな、と遠夜は思う。今までの自分への対応、監査のときの対応、そして今のクラスの対応。全てが明らかに違っている。  本物はどれだろうか。  遠夜はぼんやりとそんなことを考えていた。ただ自分のは偽物だろう、と付け加えて。 「ねーねー秋乃」  女生徒の一人が秋乃に声を掛けた。 「ん、どうしたの?由希子」 「ほら、そこの男子」  由希子と呼ばれた女生徒が遠夜を指差す。  ……俺?  と自分を指差すジェスチャーを返すと由希子は大きく首を縦に振る。 「どうしたの?見ない顔だけど」 「ああ、彼は──」  と続きを言おうとして少し天井を見上げ、やがて何かを閃いた仕草をするとくるりと遠夜に向かい、満面の笑みを浮かべる。 「──??」  いきなりの行動に困惑の色を隠せない遠夜。そんな彼を尻目に踵を由希子に返した秋乃は一言告げる。 「風紀委員なんだけどね、今回の私たちの出し物をどうしてもやりたいからってつれてきたの」  いきなりの言葉に、遠夜は絶句する。 「ちょ──!」 「あら、ここにきて尚更やる気になったみたいね。良かったわ」  相変わらず笑みを絶やすことなく秋乃は平然と言う。遠夜は秋乃との距離を詰め、抗議。 「どういうつもりだよ……!」 「貴方にも楽しんでもらいたいと思っているだけだけど。大丈夫よ、私たちは仮装だからそこまできついことではないわ」  くるりと回って、 「ねえ、皆?」  その声にクラスが声を揃えて、 「おーう!!」  と机の隙間から全員で立ち上がる。ミイラ男、フランケン、かぼちゃの伯爵、狼男、大蝙蝠。他にもあらとあらゆる西洋や東洋のお化けが遠夜の視線を埋め尽くす。 「……えーっと、お化け屋敷か何かか?」 「まさか。ほら、明日って31日でしょ?ハロウィーンよ」  ?と疑問を浮かべる遠夜に、あらら、と由希子。 「まー、確かにやろうとしたときクラスの男子の1/3くらいは知らなかったからね……」  そしてえっへん、と胸を張る由希子はさらさらと言ってのける。 「えーっと、ハロウィーンっていうのは日本で言うお盆みたいなので、子供達がこういったお化けみたいな仮装をして町中を練り歩くの。"お菓子をくれなきゃいたずらするぞ!"って。そうやってお菓子を食べたりして楽しむ日」 「まあ正確には全然違うけど、由希子の中ではそれで大体合ってるわね」  何よー、と由希子が頬を膨らませ反論する。冗談よ、と秋乃は軽く笑い、 「ホントはケルト民族の宗教行事が元になってるとかそういうのがあるんだけど、基本的な楽しみ方は由希子のであってると思うわ」 「そうそう。で、私たちは各部屋を襲ってお菓子を頂こうってわけ!」 「なるほどねぇ……それで仮装ってことか」 「そういうことー」 「ってことは、だ。俺が手伝うっていうのは……」  遠夜は思考を巡らす。と、浮かびくるのは実に単純な答え。  遠夜は踵を返し、 「お邪魔しました──」 「させるかぁっ!!」 「うおあぁっ?!」  退却をしようとした遠夜を拒んだのは体躯のいい二人組だった。彼らの仮装は阿吽の像。筋骨隆々の二人にはお似合いの仮装である。ふっ、と二人は笑い、 「……えーっと」  しかし二の句が告げれず硬直。意図を悟ったのか、すかさず横から、 「夏海 遠夜よ」 「うわ、ずるいぞテメエ!!」 「わはは、白河よありがたい!夏海よ、今から俺ら男子の力でお前を幽霊へと変身させるから覚悟しろ!!」 「ちょ、待てよ!それホントに洒落になってないから──?!」  遠夜は抵抗を見せるが何せ相手は身長も体重も大きそうな二人組だ。遠夜の抵抗も虚しく教室奥へと連れて行かれる──。 「楽しそうだね、秋乃」  由希子が秋乃を肘で突っついて、笑う。 「このところとことん不機嫌だったからね。文化祭が嫌いなのかと思った」  その言葉に秋乃は苦笑する。 「今でも嫌いよ。ただ」  ふっ、と笑って、 「それでも彼がいるだけでかなり変わったわ。たまには違う人間と話すのもいいのかもね」  教室の端、衝立の向こうから男の悲鳴が聞こえる。が、二人は笑いあって流した。 「それに」  秋乃は笑顔のままで。 「彼なら何かを変えてくれると、そう思うの」  それを聞いた由希子は今までの表情をやめ、暗くする。 「……私たちのこの現状を?無理なんじゃない?私たちがどれだけ頑張っても時が来ればまた初めに戻る」  大きくため息をつき、 「『メビウスの輪』なのよ?……それをあの人が返ることができると思う?」  その問いに、ええ、と秋乃は答えた。 「確かに私たちがいくらやってもそれを覚えているから、いくらやっても変わらない。ただ、彼は恐らく、上手くいえないけれど──」  一時逡巡して、やがて言葉を選ぶように、 「外から来ていると思う。"今まで"の学生生活でまずみたことのない彼は」  へえ、と由希子が意外そうに漏らす。 「本当?」 「立場上、人の顔と名前を一致させるのは得意なの。一年の頃から大体の人間は把握しているよ。彼の顔は一度も見ていない」 「でもそれだけじゃ見落としの可能性もあるんじゃないかな」 「今日の朝、質問をしたわ。何故この学校にいるのかと。そうしたら何と答えたと思う?『朝起きたら屋上にいた』って。これだけでも充分よ」 「そんなものなのかなぁ……」  たびたび起きる悲鳴の中、由希子は短く整えた頭を人差し指で軽く掻きながら言う。 「彼に賭けないと、他にどうやって終わりを見つけるのよ」  藁をも掴むよ、と秋乃は小さく笑った。最早退けない場所にいるかのように。 「ま、確かに私たちには待つことしかできないみたいだからね」  頭の後ろで腕を交差させ、頭を乗せる。そうね、と秋乃。 「長かったわ……今まで。あの人に私たちを解放できる力があるかどうかも判らないけれど、もしも開放できた、その時は……」 「やっと前へ進めるね、二人は」  その言葉に秋乃は、ううん、と首を振り、 「私たちが進めるのは文化祭当日からよ。文化祭自体がないと、先に進めない」 「えー、なんで?」 「乙女っていうのはそういうのを求めるのよ」  秋乃が苦笑。由希子もそれにつられて笑う。  と同時、衝立の開く音が聞こえ歓声が上がった。二人もそちらを見る。 「わー、すごーい!!」  そこには空色の神父服に白のシャツをラフに着こなし、ケープを羽織った遠夜が立っていた。 「ったく着せ方が強引なんだよ、お前ら!!」  ずり落ちそうになった伊達眼鏡を小道具の聖書を持った左手の人差し指で慌てて持ち上げ、先ほどの二人を睨みつける。が、二人はどこ吹く風でそっぽを向く。 「いやいや、これでも充分に優しくしてやったぞ?なあ弟よ」 「そうだな、兄よ」 「嘘吐け!何度骨の折れる音が聞こえたと思ったんだ!」 「知らないな。俺らには何も聞こえなかったぞ。なあ皆」  兄の言葉にそーだそーだ、と周りの男子が笑いながら答える。 「……畜生、絶対グルになってやがる」  もうどうにでもなれよ、と遠夜は肩を落とし秋乃の許へ戻る。由希子は両手を顔の前で合わせ、 「すごーい、似合うよ夏海君。私もこんな神父様だったら話とか聞いてもいいのに」 「……はいはい、そうですか」  最早遠夜は取り合うつもりもないらしい。秋乃はくすくすと口元に手を当てながら笑いをこらえている。  ……どいつもこいつも初対面のくせに色々やりやがって。  ただ、  ……皆楽しそうにやってたな。  今も皆が楽しそうにこちらをみたり、作業の続きを行っている。  ……ああ、そうか。  遠夜は思った。 「待ち遠しいんだな、明日が」  そしてその楽しさの前には自分がどういう人間でも問題ない。ただ、 「楽しさが分けられればそれでいいってか」 「そういうクラスなのよ、私たちのクラスは。他のクラスはどうか知らないけどね」  秋乃の言葉に頷く由希子。  遠夜もにやりと笑い、急に先程の二人の方に走り出す。 「コラ、お前ら!俺にも何か手伝わせろ!!」  隅の方で遠夜が弟に蹴りを入れながら乱入し、揉みくちゃになる様子を秋乃と由希子は見て、顔を見合わせ。  声を上げて笑った。 「あ」  唐突に由希子は声を上げる。?、と秋乃は返答。「どうしたの?」 「そういえば秋乃って衣装合わせやってないよね〜……」  その言葉にしまった、と秋乃は小さく声を上げ後ずさりを、 「もう遅いよ〜」  はっ、と秋乃が後ろを向くとそこには女生徒数人が既に秋乃乃小脇を抱えた状態にあった。 「ちょ、ちょっと話しなさいよ!」 「ダメだよ〜、私たちも全員衣装合わせをしたんだからね?しかも皆が見ている前で。だから、秋乃もきちんと晒さないとだーめ」 「そうだよー、白河さんは格好いいから大丈夫だよ。私なんか『金切り女』で皆の前に出て笑いものにされたんだよー。だから白河さんも私と同じ目に……」 「だからってよりによって夏海君がいる時じゃなくてもいいでしょう?!後でちゃんと合わせにくるから今は赦して──」 「じゃあ皆、白河さんを向こうに連れて行ってねー」 「あ、こら!由希子!──薄情者ぉ!!」  秋乃の抵抗も虚しく、彼女もまた別のついたての向こうへと引き摺られていく。  由希子は衝立と阿吽の兄弟に殴られる遠夜を見て楽しそうな、悲しそうな複雑な表情を浮かべていた。 「──ったく、須田兄弟は無茶しやがる。手伝わせるのに何でいちいち俺に攻撃してくるんだよ!元々ああいうやつらなのか?」 「そうね。基本的に彼らはそういう感じよ。悪意は無いから赦してあげて」 「いや、手加減してくれてるからいいんだが……」  柔らかく、冷たい風が吹く屋上で神父姿の遠夜と制服姿の秋乃は運動場を遠めに見ながら話していた。フェンス越しの眼下に広がる運動場は野球用の大きな照明が中央を照らし、特別に設置されたステージのライトアップに専念している。ステージ上からは生徒のライブだろう、安っぽい電子音と軽い歌声の旋律が辺りに流れ、満たしてゆく。ステージの周辺は生徒たちが群がり、徐々に明日に控える宴に向けて感情の抑制を解放してゆく。そんな上向きの雰囲気の漂う下の空気とは対照的に、今宵の屋上は、朝よりも冷めていた。 「さて」  遠夜はようやく、といった具合に肩を竦め、秋乃に向いた。秋乃は眼下を見て視線を離さない。 「確かに今日一日、風紀委員としての仕事をやってやった。……いいんじゃないか?時間も夜まではたっぷりとある。そろそろ話してもらうぜ」  遠夜のその催促に、ええ、と秋乃は頷く。 「そうね。もう時間がない……今宵は普通の夜よりも短いもの」 「ん?どういうことだ」  遠夜の疑問に焦らないで、と秋乃。 「ちゃんと説明するわ。まずどこから説明すればいいかしら?」 「じゃあ、まずは俺を頼った理由を訊こうか。何故俺にこんな妙な頼みごとをしたんだ?風紀委員の仕事なら他にも代わりはいるだろうよ。それこそ芦川みたいなよ」 「その理由は2つあるわ。一つは」  秋乃の視線は楽しげなステージの中。 「──私が寂しかっただけ」 「……は?」  遠夜は思わず素っ頓狂な声を上げる。 「おいおい、冗談は止してくれ。そんなので俺を巻き込んだのか?」 「話は最後まで訊いて頂戴。次ので一度に理解してくれると思うわ」  二つ目は、と秋乃は吐き出した息で続けた。 「貴方に、この空気を持って帰って欲しかったからよ。この世界から、元に居た世界に」 「この世界?元に居た世界?どういうことだよ」 「いい?」  遠夜の問いを遮り、視線を外さぬまま真剣な面持ちで、 「これは恐らく、紛れもない事実。貴方が──夏海君が信じてくれるか、そうでないかで大きく違う。ただ、今から言うことは私は至って大真面目。それでも皆は殆ど信じてくれずにいる。それほど大それた、馬鹿げたお話であることを念頭においておいて」  ここで初めて秋乃は遠夜を見た。遠夜は無言のまま、確かに頷く。  いいわね、と改めて念を押し、そしてその口から発せられたのは、 「この世界は──死んでいるのよ」  遠夜の喉が、静かに鳴った。外では相変わらず賑やかな音が奏でられている。  秋乃は続ける。 「正確にはこの空間と言った方がいいのかもしれない。ただ、今私たちがいるこの場所は、確かに一度死んでいるの」 「──おい」  一拍遅れて遠夜は搾り出す。 「どういうことだよ?」 「10/31、日付が変わってすぐ、この町は完全に壊滅するの。そして壊されるのを怖がっているこの空間は自分がいつまでも生きているかのように、一年前の今日に戻り、何事もなかったかのように永遠に31日を繰り返しているの」 「──ということは何だ?つまり」 「ええ、そうよ」  秋乃は認めたくない、といったように、しかし認めざるを得ないといったように、 「この空間は『繰り返している』の。そして、それを知っているのは私と他数人だけ」  遠く、歓声が巻き起こった。その声は遠く、悲しいまでに力強い。 「……何故そう思うんだ?そこまで確信を持つのなら何か理由があるんだろうな」 「皆壊されるのを怖がって、忘れる為に一年前に戻るのよ。壊されるのを怖がらず、認めれば輪廻の中ででも記憶は根付くわ。今年で記憶が根付いて37年目」 「ってことは芦川は──」 「ええ、あの子もこの現状を認めているわ。あとは由希子くらいだけれどね」  ……芦川のあの表情は、だからか。  秋乃がフェンスに手を掛け、カシャン、と無機質な金属音が静かに響く。その音とは対照的に、ステージでは絢爛な電子の旋律が舞う。 「──どうしようもできねえのか」 「ええ。この大きな空間の中では私たちがどう抗おうともリセットされるだけ。勿論、抵抗だってずっとしてきたわ。でも、──もう疲れてしまったのよ。この中での私たちの抵抗は、限りなく小さなもの」  すう、と大きく息を吸って、一言。 「命を絶っても、また去年からスタートになるだけ。また同じ時間で自殺をしなければ、壊された当初の運命どおりにずっと、31日まで生きていく」  背筋が凍りつく感覚を、遠夜は味わった。 「だから、寂しかったのよ」  振り向き、遠夜に向けた笑顔は強がりで、しかし儚い。  遠夜は、声を掛けることが出来なかった。  秋乃はもう一度視線をグラウンドに向ける。華麗な装飾を施されたステージ。 「この前夜祭も、日付が変わるそのときに何事もなく去年の前夜祭に変わる」  見飽きたわ、と吐き捨てる。 「……昼に言った、『結ばれることはない』っていうのは、だからか」 「そういうこと。ただ、私は運命を変えるようなことはしない」 「何故?」  その問いに、当然、といったように秋乃は嘲笑した。 「この、腐った町という空間に仕返しをしたいからよ。私たちが結ばれて、貴方のやっていたことは無駄だったんだって突っ返す為に」  秋乃は苦笑する。ムリだろうけどね、と。  遠夜は秋乃の切ない笑顔を見て、無言。  突如、巨大な炸裂音と共にライトアップとは違う色の光が闇に咲いた。二人は花の咲くほうを向く。 「花火──か」 「ええ。もうすぐ前夜祭が終わるわ。そして、この30日も」  そう言うと秋乃はおもむろにスカートのポケットに手を突っ込んだ。何かを探り当て、握り、表に出したそれは丁寧に折られたティッシュだった。秋乃はそれを丁寧に、丁寧に、まるで壊れものをそっと触れるかのように、ゆっくりと、ゆっくりと、一枚ずつ剥いでゆく。  遠夜はその動作に目を奪われる。  やがて最後の包みを剥いだその先に現れたのは、 「──!!」    凛。  黄金色に輝く鈴。その鈴に付いた赤色の紐を、秋乃は注意深くフェンスへと結びつける。二度と離れぬよう、二度と見失わないよう、しっかりと、しっかりと。 「いつもいつもこうしているの。いつかこの町を見返せるその日には、この鈴の音を鳴らしてやろうって。──でも結局いつも鳴らせないまま。いつも商店街から買ってきて、結び付けて、それっきり」  馬鹿みたいでしょ?と遠夜を見て、笑う。  遠夜は首を横に振るが、秋乃も同じく首を横に。 「笑ってくれてもいいのに。一番初めは、この鈴、二人で鳴らそうって決めたから、ここにつけてたのに。何時からか、見返すための道具になっちゃってる。……そんなことしたって、鈴も嬉しくないのにね」  秋乃の頬に、涙が伝う。 「何で、私たちなのかなあ──?」  ねえ、と、声にならずに、後は嗚咽になるのみだ。 「結ばれたいのに──」  結ばれることは許されないの? 「それだけなのに──」  崩れ落ちる少女を、闇に咲く華は無慈悲に染め上げる。 「どうして──」  遠夜は無言。  救われるべきだ、と、無責任にも思う。なのに、  ──どうして、何も出来ないのだろうか。  唇を噛みしめる。拳に力が入り、腕が震える。  どうして、今になって。  要らないと思っていた力を欲するのだろうか。  どうして過去に要らないと思ったのだろうか。 「──くっ」  怒りが、口から漏れた。自分への怒り。  力が。 「欲しい──!」  遠夜が叫ぶのと同時だった。  全てがずれる様な音。  ご、と、ず、が重なるような大地の軋みが辺りを支配し、そして。 「──?!」  遠く、グラウンドの遥か向こう、雷鳴と共に巨大な『渦』が見える。 「遂に、来たのね」  秋乃は涙を拭き、立ち上がる。完全に遠夜と向かい合わせになる状態で、言った。 「日付が変わる」  そして、 「私はここで、死んでしまったことを認めなければならない」  すう、と息を大きく吸い込み、 「戻る為にじゃないわ。いずれ、前に進む為だけに、私はここで、死ぬ」  何も言えぬ遠夜に、にっこりと、優しく微笑み、 「さよなら、夏海君。今回は楽しかったよ」  またね、と、にこやかに手を振って、  それは冗談のようだった。  遠夜は目を見開いた。本能が、目の前の事実を拒否した。  近づいた竜巻は全てを飲み込んでいく。先ほどのステージも、塵のように見える、人も。  次の瞬間、  秋乃は笑顔のまま、巻き込まれた瓦礫に横殴りにされ竜巻と共に空へ。  冗談のような一瞬。 「あああああああああああああああああああああああああっ!!!!!」  遠夜の視界が完全に暗転した。 ------------------------------------------------------------------------------- 「──遠夜?遠夜っ!!」  遠くから声が聞こえる。 「起きてよ!遠夜!!」  全身が大きく揺すぶられ、反動で瞳が薄く開く。 「わ……ぁーってる、ちょっと待ってろ」  誰だ。誰か。生き残っている?  遠夜は反射的に身体を起こし、  ごすっ、と、鈍い音が文字通り波となり響く。 「──?!」  遠夜はとっさの出来事に頭を押さえ再び蹲る。 「ったぁ〜……!」  相手のどこかにぶつけたらしく、声の主もぶつけた箇所をさすっているようだ。  遠夜はまだ痛む頭を押さえながら、目をうっすらと開けた。闇夜の中、うっすらとした月明かりを頼りに姿を見つける。 「……"Alies15."?なんでお前がここに?」  遠夜は声の主の名を呼んだ。声の主──Aliesは、 「痛ぁ……って、それは私が訊きたいわ。どうして貴方がこんなところへ?」 「いや、俺は此処でさっきから秋乃の話を──」  自分で口から発した言葉で我に返り、辺りを見回す。が、 「あ──?」  周囲は黒ずんだ瓦礫の山。いつも通りの光景だ。 「……どうしたの?秋乃、って、誰かの名前?」 「ん、あー……まあな」  まだ意識が戻ったばかりなのか、何処か夢のように見える。全てが。 「……いまいち良く判らないわね。時間をかけても良いから、喋れる?」 「あー……ああ──」  遠夜はAliesに教えるというよりも、自分の記憶を確かにする為に今までの出来事を言葉に紡いでゆく。もしかすると今までのは夢なのではないかと。それすら疑いながら。  学校という場所にいつの間にか居たこと。  そこで秋乃と会い、風紀委員として手伝ったこと。  秋乃が屋上で話したこと。  最後の竜巻のことは言わなかった。思い出したくなかった。皆が、あんなに簡単に。  思い出したくなかった。だから、言わなかった。  最後の言葉を聞いたAliesは少し考えて、ふむ、と頷き、 「……恐らく貴方、"場"に呑み込まれたわね」 「場、に──?」 「ええ」  Aliesはその場に立ち、地面を指差した。そこは遠夜が寝転がった場所と同じ瓦礫の山。 「"場"は、所謂その場所が霊と化したようなものなの。人間が何らかの理由でその縁のある地で縛られるのは良く聞くわよね?場所も同じように、自分が大きく崩されてしまった場合に、その場所自体が未練を残してその場に居着いてしまうのよ」  だから、とAliesは一息つき、 「恐らく遠夜が体験したのはその秋乃っていう子が言ったとおり、『モイラの紡ぐ糸』で崩れ去ったこの土地の残滓だと思うわ。貴方は"誘導者"だからそういう"場"に取り込まれることも充分に有り得ると思う」 「ふむ」  遠夜は顎に手を置いて、ふと逆の手元の聖書に気が付く。 「──そういえば、何で俺って仮装のときの衣装のままなんだ?」 「その服が貴方を主と認めたからじゃないかしら。貴方が戻ってきたみたいに、"場"は外側からに対してはその場を変質してしまうほどの強い変化でない限り硬質なものだけれど、内側からの変化に対しては恐ろしいまでに肝要だもの。話にあったように、結局は初めに戻ってしまうから同じことだけど」 「なるほどな」  周囲を見回すとなるほど、眼鏡が瓦礫の上に転がっていた。そっと拾い上げ、眼鏡をかける。 「ところで」  遠夜はAliesに問う。 「向こうの空間で宙に受けなかったりしたんだが、それは何故か判るか?」 「簡単じゃない」  至極簡単という風にAliesは答える。 「重力がかかってるからよ」  その答えに遠夜は大仰に溜息を吐く。 「重力は人間や地球上の"物質"にかかるものだろ?俺らみたいに霊体には関係ないはずだ。何故──」 「重力は人間"だけ"にかかると思っていると大間違いよ。……"場"はその場所に縛られているって話したでしょう?」 「ああ」 「じゃあその土地は何故その土地を離れられないと思う?中には"場"の形が曖昧なものもあるはずだわ。それなのにどうしてその場所に固執するのかしら?」 「それはお前、その場所に縛られているからで──」  はっ、と遠夜は顎から手を離した。 「──"呪縛"という名の重力、か」 「そういうこと。場を縛り付けているもの、それが重力よ。地球上の重力が一般的な物質にかかっているように、その"場"の重力もまた霊体という物質を縛る効果を持っているというわけ」 「だから向こうでは飛べなかったわけか──くそ、全然気付かなかった」  遠夜は舌打ち。そして、立ち上がる。 「どこに行くの?」  Aliesは尋ねた。  遠夜は真剣な面持ちで天を仰ぎ、言い放つ。 「──秋乃たちを"誘導"する」  その言葉にAliesは目を見開いた。 「本気なの?"場"の誘導なんて聞いたことがないわ。そもそも方法は考えてあるの?」 「一応な。その為には、お前の助けも必要だ。"隠者"にも助けを請わないといけない」  それでも、と遠夜は続ける。 「あいつたちを結ばせてやりたい。──あいつたちの頑張りを無駄にはしたくないんだよ、僕は」  視線をAliesに向けた。Aliesもまた真剣な表情だ。 「手伝ってくれるか?僕の我儘を」 「いいわよ。──私の力、人脈、全てを使ってこの大仕事をやってあげる」 「すまねえな」 「謝られるのは慣れてるわ」  ふ、とAliesは不敵な笑みを浮かべた。つられて遠夜も笑う。 「さて、今から天界に行って仕事の申請してくるわ。Alies、お前は力のあるやつを集めてきてくれ。"隠者"には僕が声をかけてから連れてくる」 「判ったわ。待ち合わせはここでいいの?」 「ああ。認可が下り次第すぐに戻ってくる」  判ったわ、とAliesは一言残すと、ふわりと宙に浮き、次の瞬間には加速。見る間に天へと姿を消す。  遠夜は天を仰ぐ。月は輝き、一点の曇りもない。 「見ててくれよ、昔失敗してしまった"僕"。次こそ、僕は、間違わない」  すう、と息を吸い、その思いを確実にするために。 「触れ合って確かめる──それが君ができなかった、そして僕が今出来る、この仕事の在り方だ!」  地を蹴り、宙を舞い、加速する。  その姿は貫く意志の如く速く、迷いなく、闇夜を貫いた。 -------------------------------------------------------------------------------  同刻、違う場所の瓦礫の上に、少女が座っている。片手にはウサギの人形。  「らー、ららー……ららら」  歌を歌っているようで、その声は歌と形容するには程遠いものだ。さながらそれは雑音のようだった。  「ららー、ららら……」  人形を持たない方の腕を、ぶんぶんと振り回す。彼女の歌に合わせて。  「らららー、ら、ら……?」  少女はふと、歌うのを止めた。  普通は見えない、自分達と同類にしか見えない、光が、迷うことなく空へと一直線に伸びていく。  少女はぼーっと、その光を眺めている。  光がその残滓を消し去るまで、ぼーっと。  やがて光が天へと消え、少女はそれを確認し、また歌いだす。  「らー、らーららー、らら……」  けほ、と小さく咳き込んで。  「らら、らっ」  ふぃっ、と、風と共に消えた。  その少女が"鮮やかな魂の昇華"を見届けるのは、今から18時間後のことである。 - Fin -