「それはとてもむかし、あるかみさまがそらをおさめていたときのおはなし。    そらのにしがわに『おりひめ』という、かみさまのむすめがおりました。  おりひめははたおりがたいへんじょうずで、おりひめがつくったぬのは  とてもきれいでとてもじょうぶなぬのになりました。  そらのひがしがわには『ひこぼし』というわかものがおりました。  ひこぼしはまいにちかわでうしをあらい、おいしいくさをたべさせたりと  とてもはたらきもののせいねんでした。  あるひ、かみさまははたらいてばかりのむすめのけっこんあいてをさがすため、  そらをかけめぐりました。しばらくしてひこぼしをみつけると、ふたりをひきあわせ、  けっこんさせることにしました。  ひこぼしはおりひめのことをうわさでよくしっていましたし、  また、おりひめも、はたらきもののひこぼしをとてもきにいり、ふたりはけっこんしました。  ところがいっしょにくらすようになると、  ふたりはあさからばんまでかわのほとりでおはなしばかり。  そのすがたにあきれたかみさまはとうとうふたりをそのかわをへだててひきはなし、  いちねんにいちど、7がつ7にちのよるにだけかわをわたってあうことを  ゆるすことにしました──。」    「…あら、彦星。珍しいの読んでるね」  暗がりの部屋の一角で絵本を読んでいた彦星に女性が声をかける。その声に、  「ああ、もう7月に入ったしな。そろそろだろ?織」  彦星は軽く笑って女性──織に応えた。対する声も笑っている。  織は彦星の持っていた絵本を肩越しに覗き込み、  「とぉっ」  ページを初めに戻し、ぱらぱらと捲り始めた。その動作を彦星は咎めることなく見つめている。  最後まで捲った織は満足した様子で、直後に少し不満そうな顔で呟く。  「でも、人界の絵本って嘘ばっかりしか書いてないよねー…特に後半とか」  「話は装飾されて伝わるものだよ。君も経験あるだろう?」  「そうだけどさぁ…」  織の顔はまだ不満そうだ。  「…だって、絵本の中では私たちまだ天界にいるんでしょう?本当はもう人界に堕ちて   きているのに。自分たちの話が嘘と一緒に話されるなんてちょっとねー…」  「きっと子供に何らかの教訓を残すように改められてるんだろうね」  対する彦星は笑みを崩さない。  「本当の物語は、僕たちだけ知っているといいよ」  織を見た。暗がりでよく見えないが、その頬は微かに赤みを帯びている。  「あ…う、うん。まぁ、そうだけど…」  織は戸惑いながら、しかし恥ずかしさを隠そうと、勢いに任せ彦星の隣に座った。 その動作に彦星は少しよろめく。  「お、い、少し乱暴に座りすぎじゃないか?」  「いいのよっ」  そっぽを向く形で織は顔を背けた。こうして幸せな時間はいつものように過ぎていく。  天帝から織姫との縁談を持ち掛けられたとき、彦星は承諾したものの、いつも通りの生活を 崩そうとはしなかった。事実、織姫が天の川に毎日話しに来たときも彦星は仕事を止めようとは せず、傍らに織姫を置く形で話していた。  「貴女は仕事をしなくていいのですか」  何度もそう尋ねたことがある。しかしいつも相手は臆面もなく、  「ええ、貴方と会えることが一番の楽しみですから」  微笑さえ湛えながら言い切った。その笑顔を見るたび、彦星は自分が思っていることに対し 疑問を呈し続けていた。    ──彼女はやるべきことを犠牲にしてまで僕に会いに来てくれる。  ──僕は、彼女を信じなくてもいいのだろうか?  縁談のときに天帝から賜った首飾り。その中央に飾られた蒼い宝石は輝きを持たない。  笑顔で接する織姫の耳飾りからは、朱の輝きが絶え間なく湛えられている。  そんな彼女に対しどう接すればいいのか、彦星自身にも判らずに毎日を過ごしていた。  そんなある日、彦星は夜遅く牛を操る道具を忘れていることに気付き、  (…盗まれるといけないな)  と思いいつもの天の川に出かけた。と、そこに、  「…織姫……?」  星のかけらに腰掛け、虚空に視線を向けた織姫が居た。声に気付いた織姫はこちらを振り向き、  「あら、彦星」  と、しかしいつものような笑顔はそこになく、険とした表情が代わりにあった。  その様子に違和感を抱きながらも、彦星は問うた。  「もう眠ったのではないのですか?」  「私にも眠れない夜はあります」  「しかし、何もここまで来なくとも…夜も遅いのに」  「部屋では上手く考えがまとまりませんの」  そう言って視線をまた虚空へと戻す。  ふむ、と彦星は頷き、道具を探しつつ織姫の様子を窺っていた。  「あまり遅くまで居るんじゃないぞ」  「判ってますわ」  口での返事とは裏腹に、織姫はその場を動こうとはしない。    静かな天の川が、沈黙の二人の間を流れる。  「彦星」  唐突に織姫が口を開いた。  「…どうし」  「貴方は、自分の役目を何だと思っています?」  彦星が完全に返答するより早く、織姫が続けた。一瞬迷ったが、  「貴女と共に生きることだと思いますが」  対する織姫は振り向かず、また問う。  「それは現在の役目です。…私が問うているのは生まれたときからの役目のこと」  「生まれてから、ですか?」  「ええ」  織姫の見つめている先は未だに変わらない。  「私は父の、天帝の娘として生まれました。…いずれはこの天を治める立場になるべく   育てられました。昔から布を織ってきましたが、それも父が王位を退くまでのこと。   私の役割は父の代わりであると、周囲からは言われ続けてきました」  独白に、ふ、と織姫は息を吐く。  「しかし、私はこれで満足なのでしょうか?機織りは確かに天界で1・2を争うまでに   なりました。しかし自分から進んでやろうと思っていなかったことです。このまま   一人で何も変わらずにいってしまうのかと。   …しかしそんなときに父が貴方を連れてきてくださいました。嬉しかったです。   私の隣には誰もいませんでしたから。周囲には誰かしら居てくれたのですが、   隣には誰もいませんでした、父すらも。でも貴方は隣に居てくれる」  彦星は織姫を見ている。  「ですから私は貴方の隣に居続けたいのです」  織姫がこちらを向く、と、彦星はどきりとした。  暗がりでのその顔は、泣いていた。  「私を、まだ貴方の隣に居させてくださらないのですか…?」  彦星は動けなかった。  「…判っていたのですか?」  「貴方の隣に立つために、色々と頑張りましたから」  無理に笑おうとし、顔が歪み、ひ、と嗚咽が混じる。  「それでも」  どんなに不自然なものになろうとも、織姫は微笑むことを止めない。  「私は貴方の隣に立とうと思います」    …ああ。  「そうか…」  首飾りが、光を取り戻した。  彦星は笑う。そしてそのままで、織姫を見た。  「うん」  光は徐々に輝きを強く。  織姫はびっくりした表情で彦星を見る。その顔はもう泣いてはいない。  「僕の為に僕を理解してくれる人なんて初めて見たよ」  織姫は笑った。いつもの微笑で。  彦星も笑う。初めての笑顔で。    「僕からお願いしよう。僕の為に、隣に立ってくれないか?」  「もう僕は君の為に僕を隠すことを止めよう。──だから君も、私に取り繕うことなく、隠さずに」  そうして二人は来る日も来る日も話を続けた。  今まで隠していたものを全て吐き出し、初めて二人で居るために。  天帝が二人を咎めても、二人は理解しあうことを止めなかった。  二つの飾りは、寄り添うように輝きを放っていた。  そして、二人は引き離される。  仕事もせず、話しているだけと周囲からも見放され。  ──。  いつもの天の川。  しかしそこには牛の姿はいない。佇むのは一人の青年。  傍らには二通の手紙。  そして、短剣に巻きつけられた蒼い首飾り。  ──。  「愛する人の隣に居ることができないのなら、いっそ──」  ───。  ─────。  「彦星が天の川から身を投げた」  天帝からそう聞かされた織姫は謹慎の言い付けも無視して天の川へと向かった。  走って、走って、たどり着いた対岸にはもう、彼と共に居た風景はない。    「彦星…一緒に隣に居てくれるんじゃなかったの…?」  涙が、自分の意思とは逆に流れ出た。泣くつもりはなかったのに。  ダメだ、と持ち出した手紙を読んだ。二通あり、そのうち一通は自分に宛てていた、その手紙を。  『織姫へ』  添えられた表題だ。なんということもない、彼らしいそっけない文章。  折り込んであった中身に目を通す。  『僕と一緒に、作られた役目でなく、自分の役目を探しにいかないか?』  はっ、として織姫は涙の顔を上げた。  「天の川」  そう、ここは天の川。  何故彦星がここで身を投じたか。  それを感じた織姫は、  笑顔を取り戻し、耳飾りを外す。  「そう、ここは天の川。だから、彦星は──」  それが判ったらもはや迷う必要なない。  彦星が躊躇いなくそうしたように。  私も。  ──。  ─────。  「…織?」  はっとして呼ばれた織の視線の先には彦星の顔があった。  「大丈夫か?さっきからぼーっとしてたみたいだけど…」  彦星の顔には不安がある。それを感じた織は笑いながら、  「大丈夫よ、天界でのことを思い出しただけ」  それだけ、と加え、また顔を前に戻す。  「あれから私は姫ではなくなり、天に戻ることはなくなり」  「そして川の終わりで待っていた僕と会い人界で暮らしているね」  そうね、と織は笑う。  そして満天の星空を、二人で見上げた。    「皆はこの日、空ばかり見ている。──、見ているだけじゃなくて、探しに行こうとすればいいのに」  二つの輝きは未だ衰えることなく、空で皆を見つめている。