1、  「…失礼します」  私は書斎へと足を踏み入れる。と、そこは外の陰鬱な石壁の匂いとは違う、 本独特の香りが漂っていた。  「よく来た、待っていたぞ」  書斎の主にして私の上司の暗殺者が目の前の机の向こうに居る。  「お呼びになりましたか?──イリス様」  「でないと貴女はここに居ないだろう。もう少し近くに来るといい」  相変わらずの言い回しだな、と思い心の中で苦笑しイリス様の居られる 机の傍に歩み寄る。机の上は綺麗で、数冊の本が重ねられている以外は書 斎を照らすランプが一つと本人が楽しんでいたであろう紅茶が湯気を立て 置いてあるのみだ。  「随分と速かったな。使いに書簡を持たせてまだ1日も経っていないと いうのに」  「ええ、所用でモロクの方まで足を運んでおりましたので」  「そうか、それは助かった」  にっこり、とイリス様は笑みを浮かべた。そして、隣の侍女に目を配ら せる。控えていた侍女は一礼し、私に封書を差し出してきた。  「裏輝夜様、アサシンギルドからの命令書です。表向きはイリス様に対 しての勅命ですが、実際は裏輝夜様をご指名であることと同意かと」  「へ、私?」  封書を受け取った私は自分でもおかしいと思うくらいの素っ頓狂な声を 上げ、自分を指差してしまった。  「ふっ、相変わらずたまに地が出るな。…とにかく封書を読め」  イリス様が私に向かってくすくすと笑う。──くそー、たまにやっちゃ うんだよね、こういうの。恥ずかしさで耳が赤くなるのが判る。  ああ、ダメだ。気持ちを切り替えるように封書を空け、中の指令書に目 を通す。  「…えーと──」  「前から言ってるように」  「判ってます、声は出さずに読むように、ですよね?」  「やっと頭に入ったようだな」  「14回目だと誰だって判ります…」  『 ──指令書──     アサシンギルド元老院     ギルドの名に於いてイリスに命ず。     これより5日後、×××、△△△にて依頼人と直接コンタクトを 取り暗殺を完了すること。 尚、この指令は直属の配下を用いての完了を認める。 また、依頼人は自分と同年齢程度であり同性の者としか会わない とのことなので留意すべし。依頼人は18歳の女性であり、合言 葉に関しては同封してある。   以上 』  「…えーと、これってつまり──」  「生憎と私は一回りほど歳がずれているからな」  「──記憶が確かなら確かあと数ヶ月で桁上がりが」  「…それ以上言ったら命の保障はせんぞ、私が」  慌てて私は口を噤む。上司であり私の暗殺術の師匠であるイリス様が命の 保障をしないと宣言することはつまり、私が殺されちゃうわけで、それだけ は間違いなく困る。  「──まあ良い」  ふう、と椅子に深く腰掛けイリス様は私に告げた。  「つまりそういうことだ。お前の存在は元老院でも多少は知れているから な、それもあって私に書簡を寄越したのかもしれん」  にっこりと微笑み、  「上手くやるんだぞ?これで成功すればあの爺さん連中もお前のことを贔 屓目で見てくれるかもしれんしな。これで評価が上がればお前の養っている 友人の薬も楽に買えるようになるだろう」  「そうですね、イリス様に教えてもらったことも存分に振るわないと」  うん、と私は頷いた。その様子を見てイリス様は笑みを崩さぬまま、椅子 を立ち上がり、私の前へと歩み寄る。  私は跪き、頭を垂れた。頭上でイリス様の声がする。  「──裏輝夜。イリスの名の下、そなたに命令を下す」  「はっ」  「私に下された任務を代行し、良き結果を持ってくるように」  「はい、仰せのままに」  立ち上がり、踵を返し、私は入ってきた書斎のドアを出た。  ──輝夜の為にも、きちんと遂行しないとね。 2、  「…だからさぁ、その女は私の彼氏を誑しこんで奪ったのよ!私も初めは 聖職者様だからって大目に見てたけど、もー信じられない!!」  「──え、えーと、うん。判るよ、その気持ちは」  「でしょ?でしょ?!あーんっ、折角臨時パーティで仲良くなって結婚間 近だったのにィ!」    ──書簡にあった時間に指定されていた場所はなんてことのない、ファー ストフードショップだった。昼時ということもあり、食事をするパーティや ペアのグループが多い中、ぽつんと一人で座っていたので直感的に近寄り、 相手と合言葉を交わして──その結果がこれだ。もうかれこれ2時間程度喋 っている事柄に対し相槌を打ち続けている。  …早速後悔してもいいのかな、イリス様ぁ……。  「ねぇ!ちょっと!聞いてるの?!」  「え、わ、うん、聞いてますよぉ!!」  「酷いんだよー、その人ったらちょーっとスタイルがいいってのを鼻にか けて私の彼氏に擦り寄って、私の知らないところで何度も会ってたらしくて 挙句の果てに身体を重ねて…って、あああああああ!!確かに私はスタイル なんて良くないし、でもこんなの酷いよー!!」  「うん、貴女の言うことは判るから、とりあえず落ち着いてよ…」  さっきからこの有様で全く依頼の話に移行していないんだよね…  つまり、同年代の同性ってことは、自分の愚痴を聞いて欲しかったってこ とかぁ…がく。  幸い来た時が食事時間のピークだったので今は店内に私たちだけらしく、 これだけの大声でも視線が来ることはない。…店員さんの視線は来るけど。  私のことじゃないけど、視線が痛々しいよ……?  しかし魔術師も結局は人だな、と思う。  魔術師といえば冷静沈着、頭脳明晰、的確な判断っていうのが私の頭の中 にあるんだけれど、こういう風に取り乱すのを見ると何ら普通の女の子と変 わりはないように思う。ただ──  「……まあ、というわけだから、私はその女に死んで欲しいと思ってるの」  「ふむふむ、なるほど…だから私たちのギルドに依頼を出したんだね」  私が本来住む世界とは違うこと、それは『憎しみで人を殺せる』こと。そ の為に私たちアサシンギルドが居るんだからね。私は声を落としてその子に 囁く。『最後通達』を。  「…でも、いい?貴女の望むことは人道を外れること。直接手を下すのは 私だから貴女は安全、でも──その咎にどう付き合うかは貴女次第だからね」  私の瞳のような声だな、と思う。ただ、この声で考えを変えてくれるのな らいいのかもしれないとも思う。事実、怖がらせたらしく魔術師の女の子は 幾分か青ざめていた。しかし、  「い、いいのっ。──もう決めたから、あなた達に依頼したんだから」  「…そっか」  初めてのときもこんな感じだった。憎しみに駆られた人間に正しい判断な んか取れるはずもない。寂しいとは思うけど──  「──依頼、了解したよ。貴女の望みどおり、1週間以内にその女を死体 に変えてあげる」  ──貴女の醜い部分の為にね、とは付け加えず、私は暗殺者になる。 3、  情報収集は至って簡単だった。というのも、憎いと思っている女の子たち や色ボケした男たちに話しかければすぐだったからだ。どうやらその女は男 の間ではちょっとした話題になっているらしく、高価な服装で着飾った黒髪 の聖職者といえば誰でも判るらしい。そして決まってかっこいい男を見繕う ため夜の街を徘徊する──  ──確かに着飾った聖職者とか聞いたことないもんねぇ……  ──それに聖職者って普通そんな理由で夜の街は回らないよね。  あの魔術師の女の子と『契約』を交わしてから2日で対象のプリーストを 見つけることに成功した。なるほど、話に聞いていた通りだ。それに加えて 大人の女性特有の妖しげな雰囲気も持っている。  ──これは、見間違う心配もなさそうだね。  そう思ったし、まだ時間があるから、まずは今日の相手をするであろう男 の方を覚えることにして引き上げた。まぁ、ただの事前情報収集っていうの も必要ないような気がするんだけど──  ところがこれが結構な収穫を得た。相手をしていたのは騎士で、その人の 話(旅館の出掛けで捕まえた上に入っていったことを突きつけたら泣きそう な顔をしてたけど、とりあえず気にせずに)によると、いつもあの時間帯で あの場所に居て、自分はそれを狙って出没するけれども緑色のイヤリングを いつもしているから彼女を見間違ことはないとのことだった。  ──ということは、殺した後はそのイヤリングを持って帰ればいいね。  わざわざ首級を持って帰ることを想定していた私だったから、これは嬉し かった。いくらなんでも首を狩って依頼人に見せるのは気が引けるし。恐ら くイヤリングの存在は依頼人も知っているだろう。  これである程度の準備は整った。とりあえず夜が更けるのを待って昨日と 同じ場所に足を運ぶ。  果たして、昨日と同じ女は居た。すれ違う振りを装い、緑のイヤリングも 確認。間違いなく彼女が標的だ。物陰に隠れ、隙を窺う。  ──ごめんね、今から  瞬時に振り払う。ダメダメ、今から殺す相手に同情は要らない。  だから感情を出来るだけ失くすように、客観的に物事を見るようにする。  今標的のプリーストは相手を見つけたみたい。相手は…魔術師?格好を見 る限りそのようだ。相手の男は髪を掻きあげ何か言っているが、笑うような 声がしてプリーストが2・3言告げると相手の手を引っ張り裏路地のほうへ と歩いていった。私も見つからないようにクロークしながら尾行。  辿り着いた先は大きな旅館だった。地元でも1・2を争う高級旅館とか…  …いいなー、こういうトコ泊まれて。  ってだから私情は要らないんだってば。頭を振って思念を追い出す。そし て廊下から二人の入った部屋の位置を記憶。よし、これでいつでも殺せる。 と、  『標的は瞬殺すべし。誰にも見つかることなく、だ』  イリス様の言葉が頭を過ぎる。  『もしも見つかった場合はどれかを行え。殺すか、自決か、私に報告か』  厄介だよね、前者2つ。確かに暗殺者にとって自分の存在を知られること は死と同義語だとよく言う。だけど、それってホントのことなんだろうか? 少なくとも私は違うと思う。  だから、イリス様も一番最後の選択肢をつけたんだと思う。  ──生きていなければ元も子もない、か。  生死を司る暗殺者にとっては矛盾した答えだと思うけど、何故か私にはこ れが一番共感できる。だから師を変えイリス様の許に就いたんだけどね。  ──私は生きて帰るからね、イリス様。  思いを自分の中に叩き込み、大跳躍。  広いテラスに音を立てないよう着地し、カーテンの隙間から中を見ようと 覗くが、暗がりで良くは見えない。どうにかして目を凝らすとシーツを身に 纏ったプリーストが一人。相手の方ははどこにも見あたらない。外に出てる のかな?  ──好機だね。  開け放しの窓から静かにカーテンの後ろへ。短剣を右手に持ち、カーテン を左手で掴んだ。  一呼吸。  「──!!」  カーテンを思い切り引き破ることで視界を得た。  目の前には強張った標的がシーツに包まったままこちらを見ている。  突然の招かれざる客に声も出せない様子。    …一気に行く!  手に持ったカーテンを標的に被せ、掴んでいた手を相手の口にねじ込む。  こうすることで、声を出させなくする為だ。  対する右手にはグラディウス。カーテンとシーツの上から突き刺す。  左手からくぐもった息が漏れる。抵抗か、左手を咬まれている。  構わない。一度刺した場所を数度、そして別の場所も。  刺す度に人の肉の抉れる感触が全体を蝕む、が、それすら今の私は無視。  刺す度に血の溢れ出す音が耳に残る。が、それすら今の私は無視。  刺す度に左手に吐息が重なる。が、それすら今の私は無視。  刺す度に標的が四肢を駆使して抵抗する。が、それすら今の私は無視。  徐々にその抵抗が弱々しく、力なくなっていくのが判る。  徐々に重なる吐息が弱々しく、絶え絶えになっていくのが判る。  徐々に血の溢れ出す音が小さく、少なくなっていくのが判る。  徐々に肉を抉る感触を感じなく、機械的になっていくのが判る。  やがて咬まれている手に痛みを感じなくなり、刺すことを止めた。  カーテンとシーツを一気に剥がす。  血塗れのそれは私の左手の下へふわりと落ちた。  目の前にあるのは自身の返り血を浴びた裸体の屍。  刺した場所を数える。全部で15ヶ所。上半身をくまなく。  死んでいる。間違いない。心臓も数箇所、数回刺した。  耳に残ったイヤリングを引きちぎり、胸元に仕舞う。  仕事は終わった──。  あとは戻って報告をするだけ。そうすることで、私に戻る。  踵を返して、イリス様の許へ──  「輝夜…サン?」  聞き覚えのある声。  ──見つかった?!  体中が強張るのが判った。恐る恐る振り返る──  「な…」  頭がまとまらず、声が出ない。  『標的は瞬殺すべし。誰にも見つかることなく、だ』  『貴方の名前、訊いていいかな?いつまでもキミ、じゃ呼びにくいし』  『もしも見つかった場合はどれかを行え。殺すか、自決か、私に報告か』  『──僕は、紅羅椅』  「──なんでここに居るの?!」  間違いなかった。あの子の瞳は間違えるはずなんてない。そして、標的が 連れて行った相手は魔術師で──、ということは…  「んとねー、一晩お相手ダヨー」  くらっと来た。いつぞや話しかけた知り合いが目の前に居て、その相手は 私の暗殺標的。紅羅椅くんは特に怖がる様子もなく私を見ている。  ──どうしようどうしようどうしよう?!  彼が紅羅椅くんじゃなかったら真っ先に殺している。この右手の短剣で。  紅羅椅くんだから躊躇っている。なんで?前に助けてくれたから?  でも今見られてるよ?見つかったら殺さないと私は生きて帰れないよ?  どうしよう?どうするの?私は──?!  「輝夜サン・・・僕のこと殺さなくていいの?」  はっ、と思考が引き戻された。  今、何て言ったの?僕のこと、殺さなくて──??  紅羅椅くんは私の顔をまっすぐ見ながらゆっくりと近づいてくる。  ダメ──。  今来られたら、余計にどうすればいいか判らなくなっちゃう。  来ないで、来ないで来ないで来ないで来ないで来ないで?!    私の意思に反して、紅羅椅くんは私の目の前に立ち止まった。  彼はふ、と微笑み、強張る私の頬に  え──?  手を当ててきたんだ。  ──ちょ、これ、どういうこと?  ──紅羅椅くんは私に殺されたいの?  ──じゃあなんで笑ったりしてるの?  ──私は、私は、貴方をどうしたいと──?  「カグヤサン?」  低い声で呼ばれた瞬間、感情の何かが暴走した気がした。  紅羅椅くんを、死体の横たわるベッドに力任せに押し付け、  血の付いた短剣を首筋に当てていた。  『標的は瞬殺すべし。誰にも見つかることなく、だ』  私の荒くなった息遣いが自分でも聞こえる。  『アハ、じゃあ僕は輝夜サンって呼ばせてもらうね』  私の汗が顎を伝い、紅羅椅くんの胸へと吸い込まれる。  『もしも見つかった場合はどれかを行え。殺すか、自決か、私に報告か』  殺さないと。死なないと。報告しないと。でもどれがいいのか判らない。  『僕にはキミが輝夜サンだよ』  短剣を握る手が震えているのが自分でも判る。  僕には、キミが──。  顔を上げ、彼の顔を見る。  ──笑っていた。  「なっ…何笑ってるの!!」  「いや…なんでもないヨ」  何で何もないのに笑ってるの──?  もしかして私のこと、馬鹿にして──!!  ふざけないで──?!  「それは、面白そうだなぁ…」  「え──?」  場にそぐわない、予想だにしなかった言葉。そうして私に向けられたのは、 今まで一度も見せてくれたことのないような満面の笑みだった。  「ごめんネー、僕は紫柚の物だから勝手に死ねないんだ〜」  笑みを崩さずに、いかにも楽しそうに。  ──どういうこと…?  その思いを口に出そうとした瞬間、私は身体を突き飛ばされた。力がないの か、私でも踏みとどまることができたが彼の拘束は解かれる。  「じゃぁまた会おうネ」  笑みのまま、懐から蝶の羽を取り出し、目の前で握り潰し。  「ちょっと待って……?!」  私の声も空しく、紅羅椅くんの身体は水蒸気の粒を身に纏い虚空へと消えた。  広い部屋に残されたのは横たわる躯と私、そして水蒸気の残滓。  紅羅椅くんのあの笑い声が、微かに聞こえた気がした。 4、  あれから数日、私は依頼人の魔術師に遺品であるイヤリングを渡した。魔術師 は困惑しながらも受け取った。それは困惑もするよね、いくら自分から願い出た とはいえあの歳で殺人に関与したって事実を知ったら。私も輝夜のことがないと 絶対に耐えられないと思う。あの子はこれからイヤリングを見る度にその咎を認 めることになるだろう。そして、それからの人生はあの子次第なんだろうね。  そして今、こうしてイリス様の書斎の前に佇んでいる。  …報告しないとなぁ。  そうは思うが、気が重い。指令自体は遂行してるけれど、顔を見られている。 しかも自分の知り合いに、だ。  …暗殺者が顔を知られることは死と同義。  幾度となく以前の師から教わった言葉だ。例え心許せる者でさえそれに近づく と。ならば、この場合も私か、紅羅椅くんのどちらかが死ぬことに近づくと思っ ていいのかな?  そう思うと、なかなか足が踏み出せない。  ホントに、この選択で良かったのかな…  結局私は相手を殺すことも出来ず、かといって自決もせずに自分の意思でここ にいる。ただ、そこから先の一歩が──  「…全く。さっきから1時間22分37秒、そこに立って何をしている?」  「──ぅわぁ?!」  目の前にいきなりイリス様が出てきたので私は有り得ない位大きな声を出して しまった。驚いたなぁ…  「ああ、大きな声を出すな。お前が騒ぐと砂漠狼も驚くだろうが」  「驚きませんっ。というかその例え方なんか変なんですけど…」  「聞いたとおりの例え方だ、間違ってないが。ほら、早く入るといい」  イリス様に促され、私は渋々書斎に入る。…それにしても、さっきの時間って ホントに数えてたのかな?机の前に立った私の後ろで書斎の扉が侍女の手によっ て閉められる音が聞こえた。  「さて」  イリス様が私に向かって言う。  「とりあえず指令の報告をしてもらおうか」  「はい」  それから私はとりあえず暗殺までのことを掻い摘んで説明した。ところどころ イリス様から詳しく訊かれた部分に関しては詳細に。  「ふむ」  暗殺のところまで説明を聞いたイリス様は言った。  「全体としては及第点かな」  「うあ…」  ちょっとがくっとしてしまった。及第点ってことは、下手したら危なかったっ てことじゃん…  「依頼人との接触に関してはあまり言うことはなさそうだな。時間は本来闇夜 を選ばないといけないが、依頼人がそうさせたなら仕方あるまい。依頼人を宥め て判断を仰いだのは的確だったと思う。暗殺の仕方に関しては差し引き0だ。カ ーテンを使って返り血を浴びないようにしたのは正解だが、抵抗しなくなるまで 滅多刺しにするのは正直いただけないな。心臓を刺せばほぼ間違いなく相手は殺 せる、だから無闇に刺すだけでは効率が悪い。──ここまでなら合格点はくれて やっただろうけど」  そこで言葉を切ってイリス様は私を見る。  「──発見して1日置いた理由が薄いね。これが減点の対象」  「ありゃ…」  「標的は瞬殺すべし。瞬殺どころか1日あるね。これだけあれば勘のいい相手 だと遠くに逃げてるよ。例え集めた情報から大丈夫と判断しても、それが偽者だ という可能性もある。そうやって取り逃がしたら指令自体遂行できなかったかも 知れないよ?」  「──肝に銘じておきます」  かく、と私は項垂れた。言われてみると確かにそうだ…  「まあ」  イリス様は続ける。  「──生きて帰ってきてくれて良かったよ、裏輝夜」  そう言ってイリス様は微笑んだ。その言葉に、私の顔が綻んでいくのが判る。 この言葉をかけてもらえると、私が生きて帰ったことに間違いはなかったんだっ て思える。だから、死ぬことも殺すことも選ばなかった私は──  「イリス様ぁ…」  ダメだ、と思ったときには遅かった。私の目から涙がぼろぼろと流れる。イリ ス様も少し驚いた表情で私を見ているみたい。涙で上手く見えないけど…  「おい、どうした?」  イリス様が机の向こうで立ち上がり、私の方に来る。目の前に立ち、  「何かあったのか?」  私の髪を掻きあげてくれて、でもそれで線が切れた。  「…イリス様ぁ!」  私はイリス様の胸に飛び込んで、泣いた。    「──知り合いに現場を見られてどうすればいいか判らなくなった、か」  私は延々とイリス様の胸で泣きじゃくって、暗殺の後のこと、その彼が知り合 いで殺すのを躊躇ってしまっているうちに消えてしまったこと、そして今でもど うすればいいか判らないことを正直に話した。  「…はい」  私はイリス様を上目遣いで見る。イリス様も私の目を見ている。  息苦しい沈黙。  「──裏輝夜」  不意に呼ばれ、返事をしようとして、  「馬鹿者が」  ──両頬を思い切り引っ張られた。って、本気で抓ってる痛い痛い痛い?!  「いふぁいいふぁいいふぁい?!」  「言葉になってないよ、全く」  ぴん、と横に思い切り引っ張って離す。あーあ、私の頬は赤くなっているだろ う。…って、なんでいきなり、  「いきなり何するんですか…」  「いきなりも何もないだろう、気付かないのかお前は」  「…へ?」  頬をさすりながら私はイリス様に問う。  「その小僧はお前の心の中のひとまずの決定を代行したのではないか?…お前 は身内になると極端に優しくなるからな、殺したくないという気持ちが出てたの だろう。そこら辺を汲み取られて、しかし葛藤に悩んでいる姿を見て手を引いた のではないのかな」  「で、でも彼は──」  「そういうことにしておけ」  にやり、とイリス様は唇を片方だけ上げて笑った。  …型に嵌りすぎて怖いんだけど…。  「真意は彼にしか判らないさ、ましてや異性の考えてることなんか私にはさっ ぱりだ。お前にも判らないだろう?彼の真意が」  私は頷いた。判らない、面白そうと言った言葉の意味も、私が彼をどうしたい のかも、  「──判りません」  「ならば」  イリス様は笑いを深くした。判っているだろう?と私に問いかけるように。  「彼に会って、訊けなかったことを訊くといいだろうさ」  ──うん。  「それをした上で、自分の選択を決めても遅くはないはずだ」  ──そうだよ、ね?  「殺害か、自決か。この二つだけが答えでないことをお前は知ってる」    ──二つじゃなくてもいいんだよね。  「古い枠に囚われるのは昔の人間だ。お前たちは違うだろう?」  「──はい」  「ならその答えを探しに行くといい裏輝夜!」  私は意志と共に立ち上がった。意志が身体をそうさせた。  イリス様を見る。さっきまでの笑いとは違う種類の笑みだ。その笑みの意味を、 私は悟った。  「──ありがとうございました、イリス様!」  私は書斎を翔ける様にして後にした。  自分と彼、二つ分の意思を確認して、自分がどうするべきかを知りたい。    「──知りたいよ!」  石の廊下を抜け、外に出る。  外は光で満ちていた。 ---------------------------------おまけ-----------------------------------  「──さて、まずは報告書をまとめねばな。あいつめ、勝手に出て行って」  そういったイリス様は今まであまり見せない楽しそうな表情で書類を机の上に 出します。私は普段書物読解に邪魔にならないよう別の机にあったペンとインク をイリス様の傍らに移動させます。  不思議でした。イリス様が書類を書いていらっしゃる間、笑みが絶えることが ありませんでした。いつもなら有り得ないことです。程なくして書類を書き終え られると、私にその書類を差し出しました。  「これを元老院宛に提出してくれ」  「畏まりました」  今日のお勤めが終わり次第使いの者に頼むことにします。いつもならすぐに出 ますが、このようなイリス様を見たことが有りませんでしたので、今日だけは少 しイリス様の傍に居たいと思います。私も嬉しく感じますので。  相変わらずイリス様は笑ったままです。  「なあ」  「はい」  この部屋には私とイリス様二人だけしか居ません。よってイリス様が普段呼び かける場合、それは必然的に私を呼んでいることになります。なので私は応答し ました。イリス様は虚空を眺めたまま、  「あの小僧もなかなかやるよな」  「…え?」  返答に窮しました。あの小僧、とは恐らく裏輝夜様が仰られた件のお知り合い だろうと思います。その型が、何故イリス様にここまで言わしめたのでしょう?  「あいつはアサシンギルドのことを知っていた上で逃げたんだろうさ、まるで 自分を追いかけさせるように。…基本的に顔を見られた相手は殺すまで追いかけ てその証拠を抹消させる、それが私たちの今までの暗黙の了解だったからな。そ れを理解していたうえでそういう行動に出た」  「それはつまり──」  私はイリス様を見ます。が、イリス様は相変わらず虚空から視線を逸らさず、  「裏輝夜のことを知りたいと、思っているのかも知れんな。若しくは純粋に楽 しんでいるだけか──いずれにせよ」  紅茶を少々口に含まれ、吐息され、  「奪うつもりなら、彼女を納得させて欲しいな。──不本意だが、例えそれが 玩具目的であったとしても」  そう言われたイリス様の表情は本当に寂しげでした。  「心配せずとも、そのお知り合いはそのような考えではないと思います」  「だといいが──」  と言った後で、苦笑し、  「──私もあの子のことになると過保護になってしまうな」  傍らの本を多少乱暴に手に取り、続きを読み始めました。  その姿に何処か拗ねた子供のようなものが見れて笑みが零れます。ですがそれ を悟られないように、私はまた書斎の本の埃を取る作業を進めることにしました。  この先、お二方はどのような答えを見つけられるのでしょうか?  その答えは、きっとこの書斎のどの本にも載っていないのでしょう。